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Bangladesh (旧東Pakistan)

​                     

                     1969年、初めての海外出張は東パキ

                     スタンだった。1971年に内戦が勃発

                     し完成直前だった工場を離れ帰国。

                     独立を果たしバングラデシュとなる。

                     独立後再び訪れ工場を完成させ、その

                     後運転指導で1年間滞在した。

​                     建設工事が始まると近隣から村人が

                     集まって来た。仕事を求めに、見物

                     に、物売りにと。ピーナッツ売りの

                     裸足の少女は人気があった。

 

                            

  アフリカでの飢餓の現状をテレビ、雑誌で見ていると、当時地上最貧国と言われた東パキスタンも、まだ増しだったのではないかと今は思えてくる

 

 しかし、私が初めて首都ダッカの空港に到着した1969年時のカルチャー・ショックは大変なものだった。初めての海外ということもあったが、やはりこの国ゆえのものだろう。しかし、その後この国に慣れるまでにそんなに時間はかからなかった。そしてここでの数年の経験が、その後いかなる国へ行っても驚かない下地を作ってくれた。

 この国のことは、今では全てが、たとえ子供に石を投げられたことすら、懐かしく思い出されてくる。    

 

 バングラデシュ国土の大半は、ガンジスとプラマプトラの両大河が合流する大デルタ地帯に位置し、東ベンガルと呼ばれる。西ベンガルはインド領域になる。人種はベンガル人でベンガル語を話す。以前は英領だったので英語を話せる人は多い。5月から10月にかけての雨期には、国土の大半が水の下に沈む。雨期前にはサイクロン(ベンガル湾特有の台風)が暴れ廻り、豪雨と突風と雷鳴がベンガル平野を襲う。サイクロンと満潮が重なった時は、ベンガル湾の高波が人も家畜も家屋さえも押し流し、そのたびに毎年のように何百何千の人命が奪われる。当時の地方紙に高潮後の写真が出ていて、椰子の木の上に子牛が引っかかっていた。

 それでもベンガル人はこの土地にしがみつき、細々とした生活を続けている。

 雨期が終わり、冠水が引ける頃、強烈な太陽が輝き、国土一面が新しい緑に変身する。

 バングラデシユの国旗は、日本の国旗の白地部分を緑色に変えただけでよく似ているが、これはこの太陽と緑の大地を表わしている。

 

 

 バングラデシュの首都ダッカの朝夕、通りは人とリキシャ(自転車の人力車)で埋まる。自由を求め、東パキスタンからバングラデシュとして独立した東ベンガルの民は、自由は得られたが、経済的には自立が難しかった。独立前と相も変わらず、貧しさの中で黙々と働いており、なんら変わるものではなかった。ダッカの町は、農村からの流民でますます窮乏者が増え、もっとも手っ取り早い職業であるリキシヤ運転手と、乞食が街に溢れていた。幼児と老人の死亡率は高いのに、人口は増加の一方であり、人口問題がこの国の主要課題であることは明らかだった。産業や軍備の前に、教育と娯楽と家庭の照明が急務と、私は真面目に考えたこともあった。 WHOも同じ考えらしく、幾たびも専門家を派遣しては保健教育と産児制限の普及に努めたが、その努力も空しいようだ。

​ 我々が建設した尿素肥料工場は国内での利用よりも、輸出されて外貨稼ぎで活躍していると聞いたことがある。

バングラデシュは大河が多い。そのために道路が寸断され、鉄道は直線50キロを 200キロも迂回することになり、これらが経済の発展を大きく阻害している。独立前は、東パキスタンの発展を望まない西パキスタンの謀略によって、わざと橋が架けられなかったとか、インドの侵攻を防ぐためだとか言われていた。事実、印パ戦争では、インド軍は地上部隊の速攻が遅れたために、かなりの落下傘部隊を出動させて勝利に導いたと言われている。独立後、日本からの援助で、日本の土建会社によって、ダッカへ入る国道の一つに大きな橋が架けられた。この橋をバスやトラックが通るようになって、ずいぶん地元の人たちに便利になったようだが、この国では必要とされる橋はまだまだ不足している

 

 

 

 雨期、大地が水の下に沈むとき、この国特産のジュートの原料となる黄麻が水面に顔を出している。収穫されたジュートは帆掛舟で大河を運ばれる。往年には一大産業であったジュートで作った麻袋は、世界的にプラスチックに代えられ、だいぶ苦戦している。が、最近は環境問題で、地球に優しい繊維として、麻袋だけでなく、衣料やカーペットとしても輸出され、ジュート産業が復活しているようだ

 ノーベル賞を受賞したベンガル出身の詩聖タゴールは、ベンガルの風土を愛し、多くの詩を残した。しかし、ベンガルは豊かな大地と共に苛酷な自然を併せ持っており、彼らの生活はこれからも困難の道を歩むことであろう。私としては因縁浅からぬこの国、今でも気にかかるところであり、ジュートも頑張れと応援したい

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バングラデシュへの渡航記録

1969年1月16日 香港経由で初めてダッカ空港へ

1969年7月21日 休暇にて2週間帰国

1969年8月9日  ダッカへ再入国

1970年10月9日   休暇にて2週間帰国

1970年10月28日   ダッカへ再入国

1971年3月14日   内戦にて避難帰国

1972年3月21日   独立後の工場調査で入国帰国      

1972年5月25日   工場再建運転でダッカへ再入国   

1973年1月1日     休暇でインド・ネパールへ

1973年1月14日   業務完了で帰国

1984年10月26日   工場改造打ち合わせで入国

1985年1月11日  工場改造工事で再入国

1985年5月25日  業務完了にて帰国

1985年6月25日    プロジェクト後始末で再ダッカへ

1985年7月26日  完全帰国へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

工場建設地の横を流れるイルカの棲む河

地元の住民が体を洗い選択する河

建設用機材や工場機材は全てこの川を含む幾つかの大河を経て運び込まれた。

詩聖タゴール

    ​ジュート運搬帆掛け船

地方の豪邸と令嬢                 ダッカへ向かう満員列車

農村の夜明け                          ダッカのリキシャ

危うい木橋                     集まって来た子供たち

結婚式での花婿花嫁                 ドサ廻りのおかま劇団

イスラム教国のキリスト教信者      中学校運動会の審判約の女子生徒        田舎の水汲み少女

​独立まで

 

「暁の脱出」
  空がかすかに明るくなったようだが、地上はまだ夜の帳の中にある。雨期前の3月は、日中ともなるとかなり暑くなるが、早暁の屋外ではまだ冷気が肌に寒さを覚える。慌てて薄着で来た人たちは、吹き抜けの駅舎の中でその冷気に震えている。駅前の広場には、列車を待つ地元の住民が何人も半袖シャツとルンギという腰布にサンダル姿で、膝を抱えて地面にうずくまっている。彼らも寒いのだ。列車の到着までまだ小1時間はある。私たちが覚える寒さには、これから先の不安も加わっているのだ。
 身の回りのみの軽装で、ジープとトラックに分乗した36人が、まだ暗い現地を離れたのは3時20分だった。揺れる車上は切る風が冷たい。近くの駅までの15分が長く感じられる。それまでの長く迷い続けた会議がやっとたどり着いた決定。そして直ちに出発と、寝もやらずの慌ただしい動きだった。
 運行しているだろうか、と心配していた列車は1時間ぐらい遅れるとのことで、それぐらいならいつもの通りだと安堵する。予定通りに延着した列車はいつものように満員だ。辛うじて彼らの間に割り込み、乗降口に立ったまま1時間近くを耐える。混乱が予想される中央駅を避けて、一つ手前の駅にて下車する。ここから目的地の国際ホテルまでは歩いて30分はかかる。私たちは2列縦隊を組み、先頭には日の丸の小旗を掲げ、粛々と歩き出した。途上、私たちに向かって何か叫ぶ者や、石を投げたりする子供もいたが、別に悪意があってのものではない。怒りのやりばがなく、高ぶっているだけなのだ。それでも緊張した行進は続く。何とか無事ホテルにたどり着く。後で聞いたところによると、この列車を最後として、以後はすべて運行停止となったそうだ。ほんとうに危機一髪の脱出行であった。そして私たちの置いてきたスーツケースも、後日ホテルに届けられた。

 1971年3月。首都ダッカから50キロほど離れた、川沿いの村ゴラサールでの肥料工場建設は、工事が終わり、運転に入ったところであった。当時、現地に駐在していた私にとって、東パキスタンで起った独立前のこの事件は、記憶の薄<なりつつあった終戦直後の北朝鮮からの脱出行を想起させるものであった。その幼い時の引き揚げ体験に較べたら、今回のはまだ余裕があった。当時の無蓋貨車は今度は客車になり、深夜の38度線国境を徒歩突破したときの緊張度とは比べものにならない。そして引揚船での帰国は今回、ジェット機へと変わったが、それでも似たような状況の再現であった。

「ベンガル人の蜂起」
 3月1日午後1時。時の大統領であり戒厳令司令官でもあったヤヒヤ・カーンは、国民議会開催の無期限延期を発令した。このニュースがラジオから流れると、怒った東パキスタンの大衆は各所で立ち上がり、暴動へと発展し、ダッカの町は混乱のるつぼと化した。暴徒は次々と西パキスタン人を襲っていった。
 ここで当時のパキスタン情勢を説明しておこう。私が初めて行った当時、バンゲラデシュはまだ東パキスタンと呼ばれていた。インド内のイスラム教徒が1947年に分離独立し、インドを挟んで東と西1600キロも離れて一つの国パキスタンが成立した。しかし独立当初から、この東と西は分離の要素を孕んでいたと言える。人種も言葉も異なり(東のベンガル地方ではベンガル人がベンガル語を話し、西側ははパンジャーブ人がウルドゥー語を用いる)、単に宗教が同じというだけでの統一国家であり、しかも政策は、政府、軍部を握る西パキスタン偏重となり、次第に東パキスタンは西パキスタンの植民地化していった。これを不満とする東パキスタン人の反抗はデモ、暴動へと次第にエスカレートしていく。政府はこれを抑えるために戒厳令を布き、西の軍隊をもって弾圧した。
 議会延期に対し、東パキスタン人の暴動が先鋭化したのには理由があった。東側をなだめるために前年暮れに実施した国民議会の総選挙で、東ベンガル人のアワミ党が過半数を制し、東側の人民の意気は盛り上がっていた。公平な選挙を行えば、7千万人の東側が5千万人の西側に勝つことはわかり切っていたはずの選挙を実施したのには、時の西側政府に何らかの目算があったのだろう。しかし、その目論見は外れ、議会が開かれれば西側による政権維持は不可能となることが明白になった。そこで西パキスタン人である大統領によって議会の開催延期宣言となった。この強権による議会延期に彼らの怒りが爆発したのだ。
 このような事態になれば、ベンガル人の怒りは加速され、暴動も最悪化することは予想されたものであった。要領のよい西側の高級官僚は既に逃避したり、軍隊に守られていて、主として商人が襲われたようだ。都市部では、暴動に参加する者、それらを鎮圧しようとする軍隊、それらを避けながら銀行から預金を降ろす者、マーケツトで買い溜めをする者、さらに市外へ逃げ出す者などで混乱が続いていた。 

「深夜の会議」
 そのころ工場サイトでは、危機が迫りつつあるという情報を私たちも得ていた。そして、いつでも緊急時には引き揚げられるようにと準備だけは進めていた。しかし、地方のこととて危機感はまだ薄かった。
 当時、現地には、賄と看護婦の2人の日本女性がいた。建設時の100人を超す日本人のために駐在していたのだが、試運転時にもまだ引き続いて残っていた。しかし、状況を考慮して、安全のためにと2月末に2人とも首都ダッカヘ避難し、直ちに日本へ向かうことになっていた。しかし時すでに遅く、ダッカの空港は閉鎖されて出国できなかったことを私たちは後に知ることとなる。

 1日のダッカの情勢が最悪の事態となりつつあることを、現地の私たちが知ったのは、午後7時。直ちに、ダッカ事務所と電話連絡を試みるが不通であった。通信不能だったので、ダッカからの使いの者によってダッカの詳しい情報が、届けられたのが午後9時であった。
 その情報によると、かねてから西パキスタン偏重の政策に不満を抱いていたベンガル人の指導者ムジブル・ラーマンが、東西の分離自治を要求して、東パキスタン全域に亘ってゼネストを宜言し、同時に大集会を催す予定。それに伴って大暴動に発展し、それが地方にも波及する恐れがあるから、早くダッカヘ脱出した方がよいとのことであった。
 当時、工場には36人の日本人が駐在していたが、真夜中に主だった人たちが集まり、これからの対応について検討した。 内乱となった場合に一番危険なのは首都ダッカではないのか。ダッカヘ向かうとしても、途上で暴徒に襲われるという危惧もあるのではないか。しかし現地に居ても、すべての情報、交通から遮断、隔離され、日本への帰国も難しくなる恐れがあるのではないか。 また、最近は現地近辺でもデモ行進などが頻発しており、子供などが興奮して私たちに石を投げ付ける行為なども発生していて、現地も安全とは言えなくなってきていた。工場内ではベンガル人である客先が、一応私たちの安全を保証するとは言っていたが…。どうするのが最善か、皆が迷うのも当然であり、責任者も決断の付けにくい場面だった。そして、早朝4時8分の急行にて脱出行の選択を決断した時は、最寄駅までの時間を考えるとぎりぎりの決定であり、暁の脱出行となったわけだ。

「ホテルに缶詰」
  2日から戒厳令が強化されたが、市内では西と東の対立が激化し、一度ならず、暴徒に追われた西パキスタン人がこのホテルに逃げ込み、銃の発射事件がホテル内で発生している。放火によって各所に立ち上っている煙がホテルの窓から見え、散発的に銃声が響いてくる。食料や雑貨が店から姿を消し、ホテル内でもタバコの値段が2倍になり、食事は毎度カレーとなって、うんざりした日々が続くことになる。
 ホテルに缶詰が続き、もてあます日々であったが、数日後から、再開した1日1便の搭乗予約を取るために、交替で空港へ行くことになった。これは列に並んでただひたすら待つ退屈なものだが、いい気晴らしにはなった。幸いにも5日に2席確保でき、女性2人はやっと国外へ脱出できることになる。ホテルからの外国人出国者が増え、ホテル内がなんとなくざわついている。
 そんな状況の中でも英字新聞は毎日発行されホテルに届けられている。それによって、毎日どこどこで数百人が殺されたと聞く噂が、実は3、4人であったことを知ったりするが、真偽はともかく、生臭いニュースばかりである。夕方、食事のために1階に下りて行くと、そこに出発したはずの看護婦さんが居るではないか。予約の取れた便に乗れなかったとのこと。飛行機は脱出する西側の人たち、特に官僚、軍人を優先させており、更に数百人が並んで待っている状態とのこと。幸いなことに賄のおばさんだけはなんとか搭乗できたらしい。情勢は緊迫しているようだ。
 7日には100万人の大集会が予定され、若し軍隊と衝突したら大暴動化する恐れがあり、このホテルといえども危険だとなり、すべての外国人がホテルを引き払って何れかへ消えていった。私たちも日本領事館へ移動したが、何と集会は平穏に終了し、私たちも夕方にはホテルに引き揚げてきた。この日の大集会は、公称100万人がダッカ中央の競馬場を埋め尽くしたそうだが、この競馬場の中にはゴルフ場もあり、騒動の前はここの競馬とゴルフが、ダッカでの数少ない娯楽であった。そのころ、同僚の1人が、ここで大穴馬券を当て、現地人たちの羨望の眼差しを浴びながら、大急ぎで逃げ帰ったことを思いだす。
 今日の英字新聞には、成田でデモ隊と警官が衝突し、百数十名が負傷したと報じられている。たまに出てくる日本のニュースは、閉鎖社会の中で、話題に乏しい現在の生活に活気を与えてくれる。 この日、アメリカもドイツもチャーター機を要請したとの噂が流れ、それに対して日本の領事館はまだ他国の出方を窺っているようだと聞き、私たちはその日和見外交に憤慨する。
 
 8日、毎日新聞の特派員から、本日、日本航空にチャーター機派遣の要請が出たと聞かされたが、ガセネタだった。待っていた朗報だけに失望が大きい。今日は市内も平穏なようだ。東側も西側もお互いの出方を窺っているというところか。嵐の前の静けさなのか。
 9日、世界銀行が要請した飛行機に15人が乗れそうだとのことで、急遽15人が空港へ向かうが機の影なし。 翌日、搭乗予約の順番待ちのために空港に行き、屋外の暑い日差しの下で、300人の後に並ぶ。が、ほどなく、全員分の座席が別方面で確保出来たと連絡が入り、喜んで帰路に就く。途中、中華料理屋に寄ってみたら開いていた。紅茶のポットでカモフラージュした生温いビールを飲み、久しぶりの料理の味に満足する。禁酒国なので町のレストランにはアルコールを置いてないが、この中華料理屋は以前から私たちの馴染の店で、マスターがとっておきのビールを、そっと出してくるのが以前の通りで、私たちを感激させてくれた。
 ホテルに戻ってみると、政府依頼のチャーター機が、12日に確定したとの嬉しいニュースが待っていた。帰国決定に浮き浮きしながら、さっそく祝賀麻雀のご開帳となる。何しろ、ここでの唯一の娯楽だ。

「帰国・独立」
 12日午後2時、ほんとうに日本航空のDC18型機がダッカ空港に到着した。荷物を一人20キロに制限して、120人乗りに150人を乗せ、バンコックに向けて直ちに飛び立つ。上空から見えるダッカは、あの擾乱が嘘のように、緑と水の豊かな以前どおりのダッカだった。しかし、その2週間後、ベンガルの情勢は再び急変する。
 私たちをバンコックに送り届けたDC18は、折り返し、残りの70人を迎えるべく、再びダッカヘ向けて舞い戻って行った。私たちは、バンコックのホテルで熱い風呂と日本料理に生き返り、清潔なベッドで安眠をむさぼったのだった。
 かくして私たちは無事日本へ帰ってこられたが、その後バングラデシュが独立するまでには、まだまだ多くの苦難が待ち構えていた。その後の経過は次の通りである。
3月15日   ダッカにてヤヒア大統領とラーマン指導者との第1回会談が開かれた。
    25日   25日までに6回の会談が行われたが交渉はすべて失敗に終わり、ラーマンは

       逮捕され、西に拉致される。ヤヒアも西へ帰国する。
    26日   西側軍隊による一斉掃討が始まり、市内は屍の散乱する死の町と化す。
       ベンガル人民開放軍は組織も武力も弱く、西の軍隊と散発的に戦ったのみだ

       った。    
       アワミ連盟は地下放送を通じてバングラデシュ独立を宣言。                   4月13日    幻の首都 ムジブナガール(実在しない町) にて臨時政府樹立。   

       獄中のラーマンが初代大統領に選ばれる。 西側の軍による弾圧は極みに達し

                   インド領西ベンガル州ヘの難民が続々と増え,最終的には1000万人に達したとの

                  ことだ。この中には敗走した地下政府の義勇軍も多く含まれていた。
12月2日    インドがパキスタンに宣戦布告。実際には10月より戦闘は始まっており、イン

     ド軍は東ンガルヘ侵攻していたのだが。
  16日  パキスタン無条件降伏。
  17日  ダッカ解放。
      ラーマン氏解放されて帰国.ここに新政府が固まる。

 こうしてバングラデシュは多くの犠牲を払って独立したが、政治上、経済上といろいろ問題が多く、1975年8月、軍部クーデーターによリラーマン首相は暗殺され、以後軍政となる。
 なお、バングラデシュが独立できたのは、勿論東ベンガル人の独立への強い欲求が原因であるが、その裏には強国の激しい駆け引きがあり、インド洋への進出を目論むソ連の強い軍事援助がインドに対してあったからこそ、パキスタンの早期降服が実現したと言われている。

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